Kenya(9)アンボセリヘ500キロ超の移動
2012年 07月 03日
500キロといえば東京大阪間に匹敵する。
新幹線だと2時間半だけど、そんな比較は無意味。
この地は大昔からこのまま、というのが売りなのだから。
添乗員のKさんは20年くらい前にきたことがあり、そのときと変わっていないという。
これはある意味嬉しい。
だけどこれから移動する道中の景色は人々の営みでもあるのでこの先も変わらないというのは
ある意味悲しいことかも・・・。
移動中も車窓に張付いてシャッターを切り続けることになる。
6時半の日の出とともにロッジを出る。
月曜ともあって子ども達の登校時間と重なる。
例によって水溜りをクリアしながらしばらく埃っぽい道のアフリカンマッサージが続く。
制服だろう、おそろいのグリーンのセーターを着た子ども達のグループが手を振ってくれたり、
咄嗟に身を隠そうとしたりする。
身を隠すのは写真を撮られたくないからだそうで、遠くから望遠で狙ったり、目立たないコンデジを使った。
マサイの村では放牧の前のミーティングか、赤い布をまとった牧童が集まっている。
水溜りをサファリラリーしながら、シマウマやガゼル、バブーン(ヒヒ)を見る。
と同時に向こうもこちらを見てくれる。
家畜の牛やロバがクルマの前を横切ったりもする。
どのくらいたっただろうか、フェリックスが「End of African massage」と言った途端
クルマの荒い振動がおさまり、一瞬クルマがふわっと浮いたかのような感触があった。
ついに舗装道路の入ったのだ。
「オー!」と一同は声をあげる。やっぱ、楽チンね舗装してあると。
途端にクルマはスピードアップする。80~100キロで飛ばす(飛ばせるところだけ)
道端でジャガイモを売っている。バケツをひっくり返してその上に器用に積み上げてある。
女の人が背中に豚一頭くらいの大きさに束ねた薪を運んでいる。
何処へ行くのか歩いているひと。目的地に思えそうなものは・・・地平線しか見えない。
道路わきに散在するお店はどれも原色で塗り分けられていて
緑一色の辺りの景色にアクセントを添えている。看板は英語表記がおおい。スワヒリ語との併記なのだろう。
集落もいくつか通った。マーケットの雑踏は好きなので走行中の車窓からでもシャッターを切った。
町になるにしたがって排気ガスと埃が酷くなる。渋滞で止まると物売りがやってくるのは良くあること。
一度渋滞でとまりそうになったとき、フェリックスが「窓を閉めて」と言った。治安が良くないらしい市場の雑踏を通り抜けるときだった。
お昼前頃、グレートリフトバレーという見晴らしの良いところについて、トイレ休憩。
土産物屋がある。土産物屋や、ホテルのブティックなどにおいてある商品は共通のものもあるがそのお店ごとに固有の品があって面白い。
ハローと言って寄ってきた店員が黒と茶色の石で出来た文鎮のようなものを売りつけてきた。
象の行列が彫ってあって、下にこの景色の略図やスワヒリ語の簡単な挨拶が書かれてあってとても面白い、欲しい。
だけもうこのころはポーカーフェイスもできるようになっていたので
おしなべてこういうものは意外と高い。日本での売値などと比較すると多少安いかもしれないが
どうも外国人物価のような気がする。
昼食は日本食レストランにて。韓国人経営、黒人の板前ということなので期待もしていなかったから落胆することはなかった。
これは別に人種偏見ではなくて文化の違い。
午後はナイロビ市街を通る。車は南東の方向に走っている。
近代的なビルの間を通ったり
映画「愛と哀しみの日々」の作者「カレン・ブリクセン」(ペンネームはイサック・ディーネセン)の屋敷がミュージアムになっている。
イギリス人の末裔が住んでいた一帯らしく高級住宅街だ。
大使館などもこの一角にある。
ジラフセンターに到着。
ロスチャイルド・ジラフが何頭かいて柵の中に放し飼いになっている。Zoo,と書いてあるけれど日本の動物園とは勿論環境が全然違う。
入場料を払って入り、建物の二階のベランダからキリンの餌付けができる。
最初は飽食気味なのか植え込みの中へ去ってしまったキリンたちを係員の男性が迎えに行き、連れてきてくれたので大人が大騒ぎ、大喜び。
間近で見ると頭は大きい。馬くらいある。可愛さは遠目でも近目でもどちらも変わらない。らぶりー(^^)
そのあと渋滞を何度か通り抜けて緩やかなスロープを何度か下る。
標高1700mのナイロビを過ぎると降りる一方だから。
しばらく走ったらまたアフリカンマッサージの道に入り
もうもうと土煙を上げながら宿の「キボ・サファリ・キャンプ」を目指した。
(写真はあとでアップします)
テントに泊まるのだが、詳細は別の項で。
新幹線だと2時間半だけど、そんな比較は無意味。
この地は大昔からこのまま、というのが売りなのだから。
添乗員のKさんは20年くらい前にきたことがあり、そのときと変わっていないという。
これはある意味嬉しい。
だけどこれから移動する道中の景色は人々の営みでもあるのでこの先も変わらないというのは
ある意味悲しいことかも・・・。
移動中も車窓に張付いてシャッターを切り続けることになる。
6時半の日の出とともにロッジを出る。
月曜ともあって子ども達の登校時間と重なる。
例によって水溜りをクリアしながらしばらく埃っぽい道のアフリカンマッサージが続く。
制服だろう、おそろいのグリーンのセーターを着た子ども達のグループが手を振ってくれたり、
咄嗟に身を隠そうとしたりする。
身を隠すのは写真を撮られたくないからだそうで、遠くから望遠で狙ったり、目立たないコンデジを使った。
マサイの村では放牧の前のミーティングか、赤い布をまとった牧童が集まっている。
水溜りをサファリラリーしながら、シマウマやガゼル、バブーン(ヒヒ)を見る。
と同時に向こうもこちらを見てくれる。
家畜の牛やロバがクルマの前を横切ったりもする。
どのくらいたっただろうか、フェリックスが「End of African massage」と言った途端
クルマの荒い振動がおさまり、一瞬クルマがふわっと浮いたかのような感触があった。
ついに舗装道路の入ったのだ。
「オー!」と一同は声をあげる。やっぱ、楽チンね舗装してあると。
途端にクルマはスピードアップする。80~100キロで飛ばす(飛ばせるところだけ)
道端でジャガイモを売っている。バケツをひっくり返してその上に器用に積み上げてある。
女の人が背中に豚一頭くらいの大きさに束ねた薪を運んでいる。
何処へ行くのか歩いているひと。目的地に思えそうなものは・・・地平線しか見えない。
道路わきに散在するお店はどれも原色で塗り分けられていて
緑一色の辺りの景色にアクセントを添えている。看板は英語表記がおおい。スワヒリ語との併記なのだろう。
集落もいくつか通った。マーケットの雑踏は好きなので走行中の車窓からでもシャッターを切った。
町になるにしたがって排気ガスと埃が酷くなる。渋滞で止まると物売りがやってくるのは良くあること。
一度渋滞でとまりそうになったとき、フェリックスが「窓を閉めて」と言った。治安が良くないらしい市場の雑踏を通り抜けるときだった。
お昼前頃、グレートリフトバレーという見晴らしの良いところについて、トイレ休憩。
土産物屋がある。土産物屋や、ホテルのブティックなどにおいてある商品は共通のものもあるがそのお店ごとに固有の品があって面白い。
ハローと言って寄ってきた店員が黒と茶色の石で出来た文鎮のようなものを売りつけてきた。
象の行列が彫ってあって、下にこの景色の略図やスワヒリ語の簡単な挨拶が書かれてあってとても面白い、欲しい。
だけもうこのころはポーカーフェイスもできるようになっていたので
おしなべてこういうものは意外と高い。日本での売値などと比較すると多少安いかもしれないが
どうも外国人物価のような気がする。
昼食は日本食レストランにて。韓国人経営、黒人の板前ということなので期待もしていなかったから落胆することはなかった。
これは別に人種偏見ではなくて文化の違い。
午後はナイロビ市街を通る。車は南東の方向に走っている。
近代的なビルの間を通ったり
映画「愛と哀しみの日々」の作者「カレン・ブリクセン」(ペンネームはイサック・ディーネセン)の屋敷がミュージアムになっている。
イギリス人の末裔が住んでいた一帯らしく高級住宅街だ。
大使館などもこの一角にある。
ジラフセンターに到着。
ロスチャイルド・ジラフが何頭かいて柵の中に放し飼いになっている。Zoo,と書いてあるけれど日本の動物園とは勿論環境が全然違う。
入場料を払って入り、建物の二階のベランダからキリンの餌付けができる。
最初は飽食気味なのか植え込みの中へ去ってしまったキリンたちを係員の男性が迎えに行き、連れてきてくれたので大人が大騒ぎ、大喜び。
間近で見ると頭は大きい。馬くらいある。可愛さは遠目でも近目でもどちらも変わらない。らぶりー(^^)
そのあと渋滞を何度か通り抜けて緩やかなスロープを何度か下る。
標高1700mのナイロビを過ぎると降りる一方だから。
しばらく走ったらまたアフリカンマッサージの道に入り
もうもうと土煙を上げながら宿の「キボ・サファリ・キャンプ」を目指した。
(写真はあとでアップします)
テントに泊まるのだが、詳細は別の項で。
by jmtravolta_johnta
| 2012-07-03 13:34
| ケニヤ旅行
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